2013年1月31日木曜日

cowcow



おおきい声


コミュニケーション能力という言葉を聞くと、ムムムッとなる。とは言っても普段生きていて「コミュニケーション能力をつけろ」と直接的に言われる機会はさほどない。ないけど、意識せざるをえない場面というのが多々あって困る。大人になると知らない人ばかりの場所にいかなきゃいけないことや、趣味や思考がどうにもこうにも交わらない人とひとつのことをしなきゃいけないことがある。僕はそのたびにコミュニケーション能力という言葉を思い出す。コミュニケーション能力診断テストを受けさせられて、毎回赤点をとってしまうような気持ちを味わうのだ。

だからひとつ、発想の転換で立ち向かうことにした。コミュニケーション能力って、つまり「声の大きさ」なんじゃないの?と思おうという作戦だ。これはそれなりに根拠もあるし、この考え方を見つけてから、気が楽になった。

もとをたどっていくと、何を持ってコミュニケーション能力が「ある/ない」もしくは「高い/低い」とするのか、というところに行き着いてしまう。行き着かないで書いていきたかったのだけど、避けながら話が進められないことに気づいた。だから答えを出してしまう。つまり、あれでしょ。「自分の要求を相手に特に苦もなく伝えられること」でしょ。適当です。ここを考えすぎるとまた深みにはまってしまうので、さらっといきます。

声の大きさとは、空間掌握力であり、影響力だ。誰かが同時に話し始めてしまったとき、決定権は声の大きいほうが持つ。ポーカーで言うところの「親」になれるようなものだ。つまり「話者の権利を相手に譲る」「相手の声をかき消して強引に話者の権利を固持する」を選ぶことができる。空間を掌握するのである。そして、声が大きいとより多くの人へ、より遠くの人へ、自分の言葉を届かせることができる。自分の主張を伝えることができる。影響範囲の確保につながる。

言ってしまえば、権力だってある意味で声の大きさだ。王様の声を国民一人ひとりに届かせることは難しくない。一方で、ある庶民の声を国中に響かせることは容易ではない。もちろん、社長と平社員に置き換えてしまってもいい。過剰な声の大きさが威圧感を生み出すのはそのせいだろう。おっさんのくしゃみの音やおばちゃんの笑い声が不自然に大きいのも、関連性があるような気がする。(あくまで一部のおっさん・おばちゃんですが)

だんだん、コミュニケーション能力が得体の知れないバケモノに感じられてきた。こわい。(ふりだしにもどる)
 
 

ピザ小僧



2013年1月30日水曜日

寝まくった日の翌日のこと


さて、というか、なんというか。ただひたすら眠くて平日なのに10時間くらい寝てしまった昨日に比べれば、今日はだいぶ元気なほう。寒かったり雪が降ってたりすると、どうしても気が沈んでしまって、引きこもりがちになる。引きこもってると社会との接点が希薄になっていくので、自分がいてもいなくてもいい存在のような気がしてきて、ますます起き上がる気力が湧かなくなってくる。悪循環というんじゃなくて、きっと循環すらしてない状態。無循環。矛盾感ではない。

そんなこんなで何の脈絡もなく、ふと悟ったのは「ブレストしたい」ということ。意味もないおしゃべりもいいけど、ちょっとだけ建設的な方向を向いて、気心知れた仲間たちと、玉石混合のアイデアをぶつけあいたい。自己顕示欲や承認欲求なんてわきに置いちゃって。
 
 

コロッケ


家に帰ったら、野球のボールのようなコロッケが山盛り。

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